「はじめてのオーストラリア見聞記」 (2000.01/15-22)
**前の勤務先での<人権だより>への記事です.はじめて海外で研究発表される方のご参考に**

 身動きもとりにくいほど満員のアンセット航空の深夜便に揺られること9時間,ついに高度を下げた飛行機はようやくブリスベンの空港に着陸した.まぶしい朝日の中をローカル便に乗り継いで,たどり着いたシドニー空港から,市内バスに揺られて学会の開かれる大学についたのは1月16日のお昼頃.誰もいない日曜日の大学のキャンパスで昼食もとれず,やや蒸し暑くなる南半球の夏の午後を,受付の案内が出るまで,ぼんやりと待つ私たちの頭上にせみが鳴いていた.--------とそんな風に私の2度目の海外渡航は始まった.
 リフレッシュ休暇と始めての国際学会発表(3rd International Conference on Geoscience Education)を組み合わせようと思いたったのは,1年前,思えば無謀な冒険であった.というのもそれまで渡航経験は皆無,英語の論文を読むことはあっても,書いたことも皆無という訳で,とりあえず英語の発表アブストラクトを室のK先輩の協力も得て,何とかまとめて2本送り,夏の休暇の合間には家族とハワイまで海外旅行の予行演習を行うなど万全の体制をとったつもりであった.
 また今回は,海外経験豊富な同僚のF氏,近々ニュージーランドに留学予定の大学の研究者N氏と一緒に出かけることもあり,最初は彼らにほとんど交渉事を任せればいいとたかをくくっていた.ところが空港に到着後,すぐに現金を作ろうとトラベラーズチェックでTシャツを購入しようとしたところ,サインのミスを指摘されたのが解せず,たまたま店で買い物をしていた日本語のできる現地の女性に通訳してもらうなど,汗をかくことの連続が待ち受けていた.また,学会初日,研究発表は英語圏以外の参加者でも流暢な英語で自信に満ちた発表ばかりであり,夕方の懇親会の参加者との交流会では私以外の日本人参加者が英語で結構楽しそうに歓談している様子を見るにつけ,本当に自分はとんでもないところに来てしまったとすっかり落ち込んでしまった.
 そんなわけで発表(といっても私はポスター発表を選択したので,5分間のintoroductionを2本しゃべればよいのだが)のある日は朝から緊張の連続で,「今日は独り立ちするぞ!」と1人で学内のコピーショップに行ったり,学会受付で交渉したりと度胸をつけようと努力した.また,それまで学会の運営が結構アバウトで少々立腹していたこともあり,「英語圏以外の国から来た人間はすごい努力をして発表を準備してきているのだから,少々へたな英語でも聞き取る努力をしてくれ!」などと変な理屈を考えて,自分を納得させていた.幸運だったのは,当日の発表者があまり英語が上手でなかったことで,自分の発表の時はなぜか度胸もすわり,少しジョークを交える余裕も出てきた.
 そんなわけで初めての海外での研究発表は無事終了した.ポスター発表も多くの教員,研究者が見に来てくれて,片言ではあるが熱心な議論ができた.特にフィリピンから参加していた若い大学の研究者Raymond氏とはN氏と3人で大学構内を散歩したり,寮の自室で深夜まで酒を飲みながら話した.同じアジア人どうしということもあり,最も気心の知れた友人となった.
 毎日,大学の構内と近所のショッピング街を往復するだけの日課であったが,この国が,昔私が抱いていた白豪主義のイメージから完全に脱皮し,多くのアジア系を中心とする多彩な民族の交流する国に変わってきていることが分かった.さらに,学会は地質調査所と大学の主催であったが,スタッフや参加者に女性が非常に多いのが目立った.日本では地質関係の研究者には女性が非常に少ないということもあり,国情の違いを実感した.ちなみに私が親しくした東南アジア(フィリピン,インドネシア)の参加者も半分以上が女性であった.日本からの女性の参加は10数人中わずかに2人であった.
 その他に,ハプニングを数知れず経験した.私の発表の日に,たまたま意気投合したFさんという教材ソフトウエアのエンジニアと一緒に,夕飯をシドニーの街まで食べにいくはめになり,N氏と3人で街までバスに乗った.途中バス内ではイタリア系移民で快活なFさんがあたりの乗客に次々と,我々2人の日本人を紹介して回ってくれた.私はおかげで偶然席が隣り合ったユーゴスラビア(セルビア)から来たという青年と話すことになった.私がサッカーファンで君の国のストイコビッチは日本のJリーグで大活躍しているよと話すと彼はすごく嬉しそうであった.しかし,なぜ彼が故国を遠く離れてシドニーにいるのかまでは,私の英語力では詳しく聞くことができなかった.オーストラリアはユーゴ難民を積極的に受け入れているということをテレビで見ていたので,少し複雑な思いがした.夕飯は初めて会うFさんの娘さんと彼女のフィアンセが一緒で,さぞかし彼らは父親が突然連れてきた見知らぬ2人の日本人にびっくりしたことと思うが,おかげで大変幸せな晩を過ごすことができた.彼らは結婚するのか?とFさんに後で聞くと,オーストラリアでは子供の結婚問題に親は口を挟まないのだと彼は答えた.しかし,幸せそうなカップルだった.
 帰りのタクシーでFさんは見ず知らずのイタリア系の若い男(終バスが行ったあとのバス停で立ち往生していた)を一緒に乗せ,バングラデシュからの出稼ぎだというタクシーの運転手(故国で学位を持っていたが経済的に苦しいので出稼ぎにきていると言っていた)との話に花が咲いていた.私は2割ほどしか話の内容が分からなかったが,この時なぜか本当に外国にいるのだということを実感した.Fさんの口癖のShould be right!とかNo worry!とかいう言葉がこの国の快活な人々を象徴している.学会の最中には,前述したように日本では考えられないアバウトな運営で腹が立つこともしばしばあったが,万事Sorry!で済まされてしまう.それでまた我々も仕方が無いなと最終的に許してしまう,この国の懐の広さというかおおらかさが一番印象に残った.ただ,環境問題にはかなり関心を持って取り組んでいるようで,学内や観光地に環境に配慮したポスターや注意書きをよく見かけた.日本のような工業国とは異なり,農業と観光を国の発展のポリシーにしている違いが際立つようだった.しかし,大学の食堂で眼にしたオージー学生達の食欲のすごさには本当にたまげてしまった.環境問題も大事であるが,食料問題も少し彼らには身をもって感じてもらわないと,------と半分あきれてしまった.
 キャンベラの大学を見学に行った帰り,キャンベラタワーのみやげ物屋で偶然,南半球が上になっている世界地図の絵葉書を見つけて驚いた.毎週通っている人権関係の研修で班ごとに研修のレポートを集めた冊子を作るにあたって,私の属した班では,表紙にこの図案を採用していたからである.「今までの視点を逆にして世界を見てみる」ということがこの図案採用のねらいであったが,誰も本物のこの地図を見たことがないと言っていたので,願ってもない班の仲間へのお土産になった.今回の渡航は文字通り,日本社会を逆の半球から見直すよい機会にもなった.
 日本に帰りついた今,改めて渡航を振りかえると,思い残したことも多い.フィリピン人のRaymondさんは戦争の話に及んだとき,祖父が家を日本軍に貸していたけれど,彼らは撤退するときも,大変親切だったと話していたと私に語った.しかし,それが単なるお世辞であるかどうかは私には確かめようがなかった.また,セルビアの青年の滞在理由もついに聞けなかった.もう少し英語力があればと思うと同時に,じゃあ,これらの国際問題に対する自信を持った見解を,お前は今持っているのかと聞かれると,はなはだ自信がない.国際化というときの自分のアイデンティティーは一体何かということを改めて問いなおす旅でもあった.いずれにせよ,日本とまったく異なるオーストラリアの広大な準平原地形と多彩で快活な人々に感動し,もう日本には帰りたくないなあと密かに思うまでになっていたが,関空から家に帰りついて,日本のうどんを食べたとたん,ああやっと帰って来たと初めて実感した.