<そんなに焦らずに4/23あるMLでの発言>
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教育をめぐる上記2つの立場(「教育とは人類の知の遺産を次世代に注入するものである」という立場と教育とは本来子供が持っている能力と資質を高めるためのものである」という立場は時代を越え,2つの異なった座標軸として君臨してきたかに見えるのですが,実は光と同様,同じものを違う立場で見ていたにすぎないのではと最近思うようになりました.どうしてそういうことになるかというと,まだあまりうまくまとめれないのですが,人間の学習という現象を取り巻く強い「非線型性」に由来すると私には思われます.
 原料の精選や,加工の技術を上げれば生産性は向上するというのは物を作る現場ではしごく当たり前の事ですが,ちょっと教育の現場にいれば,教師がいくら頑張っても,生徒にはかならずしも正の相関で効果が現れないということはよく経験するわけです.たいていは教員の能力や教材やあるいは別の立場からは生徒の資質などに原因が転嫁されてしますのですが,本当にそうかと思えてきます.
 それは自分の経験を少し振り返ればわかるわけで,中学や高校で熱心な金八みたいな教師に(まあそんな人はいなかったでしょうが)自分は影響されたかというと,かならずしもそうではなく,窓際におられた定年まじかのあまり風采の上がらない人気のない先生の授業中の雑談の一言がその後の人生を変えるということは十分ありうるわけです.

 これがまさに強い「非線型性」です.あるいは最近はやりの言葉でいうとカオスです.熱帯の小さな蝶の羽ばたきが,ハリケーンを発生させるという例のやつです(これはローレンツの本によると若干の誤解があるようですが,−−−).フックの法則では力を入れていくと長い線形応答のあと非線型領域に入り,ぽきっと棒やばねは折れてしまうのですが,ひょっとすると教育ではこの線形領域と非線型領域が入り乱れているのではと思えてきます.

 ここのところを取りこめない教育論は百害あって一理なしと最近は思うようにしています.ちまたに流布される早期教育の有効論や健康を害する程の詰め込み学習などは私に言わせれば上記効果を無視した,暴論だし,また実験不可能な一種の脅迫だとさえ思えます.

 最近,自分の学校で,3人の天才の話を授業の冒頭にしました.アインシュタインとフォンノイマンと最後は少しマイナーな人ですが,複雑系の1分野である人工生命の創始者Christopher Langtonです.
 最初の2人はよくご存じのとおりでいうことはないのですが,最後のラングトンは学生時代,ヒッピーで何度も挫折したあげく,ハングライダーの事故を契機に自分の学問を打ち立てていく経緯が,やり直し人生の典型のように思えて,生徒にあせることはないよというメッセージ代わりに紹介しました.彼は10年遅れで大学院に入学し,40過ぎて学位をやっと取得します.

http://www.chienowa.co.jp/frame1/ijinden2/Chris_Langton.html
などにも少し紹介があります.

とりあえずここで一旦切ります.